赤石幸弘写真展「聖なる場所の記憶」 展評

赤石幸弘写真展「聖なる場所の記憶」
 写真に写っているものは原理的に過去のものであり,写真によって我々が見るものは過去である.ロラン・バルトの「それはかつてあった」ということばに,このことは端的に示されている.
 逆にいえば,既に存在していないものを写真に撮ることはできない.その意味で写真とは過去の存在証明である.かつて存在していたものの存在の確証を得るための手段として,写真はきわめて有効である.そして,それだけではない.既に存在していないものが,現在どのように存在していないのか,という事実についても,写真はある種の確証を与えることが可能である.
 赤石幸弘氏の写真展「聖なる場所の記憶」は,アイヌ民族の失われた聖地である「チャシ」跡を撮影したトポグラフィ作品の展示であるが,そこに写されているものは,現在に残るチャシの遺跡,というよりはむしろ,「かつてチャシだったもの」である.チャシ跡は,かつてそこが「聖なる場所」であったという歴史的事実をまるで感じさせないたたずまいの,川縁であったり,台地であったり,岬であったり,国道沿いの野原であったりする.時には山を削って作られた住宅地になっていたり,神社になっていたりもする.愕然とするまでに,そこには「チャシ」は写っていないのである.
 赤石氏によって写真に撮られることによって,はじめてその場所にかつて聖性があったということを我々は「見る」.写真家の写真行為こそが,アイヌ民族の失われた過去を取り戻そうとする,ひとつの想起の営みとして機能している.「無の場所」が,写真に撮られることによって,過去の痕跡として我々観る者にその「記憶」を微かに指し示し始めるのである.
 モノクロの正方形フォーマットの写真は,この「過去の不在の存在」をきわめて客観的に確証する.作品1枚1枚に添えられているチャシの名称も現在まできちんと伝えられた伝承によって残されているものもあれば,現在の地名から便宜的に名付けられたものもあり,アイヌ民族の歴史の回復の困難さが垣間見える.
 赤石氏にいろいろとお話をうかがうことも出来た.今後も日本の辺境部からこうした過去の痕跡を追い求めていくということである.赤石氏のまなざしが,失われた過去の痕跡を取り戻していくさまを今後も見ていきたいと思った.

 赤石幸弘写真展「聖なる場所の記憶」
 新宿NikonSalon(新宿エルタワー28階・ニコンプラザ新宿内)にて2008年4月7日(月)まで.
 
 
 
 
 

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『沈黙の艦隊』から『機動戦士ガンダムOO』へ

『機動戦士ガンダムOO』(原作:矢立肇・富野由悠季.監督:水島精二.企画:サンライズ.MBS-TBS系列にて)がいよいよスタートした.軍事力による戦争の抑止,という矛盾したテーマに挑むのは,別にこの作品が端緒ではない.即座に連想されるのは,かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』(講談社,1988-1996)であり,『沈黙の艦隊』が「冷戦終結」と「湾岸戦争」いう当時の世界情勢に見事にはまっていたように,『ガンダムOO』がアフガン/イラク/パレスチナ/コソボなど近年の世界紛争を物語の設定構想の背景にもっていることに議論の余地はないだろう.「武力介入」などという術語が普通に用いられるところが時代だなあと感じる.
 政治ショーと謀略の描写という点では,報道メディアが頻繁に出てくるのも特徴的であり,メディア関係者や学生といった登場人物がどう関わっていくのか興味は尽きない.『機動戦士ガンダム』でのガルマ・ザビの葬儀におけるギレンの演説や,『Zガンダム』でのクワトロ大尉=シャア・アズナブルのダカール演説に匹敵する名シーンがきっとあるのだろう.
 アーサー・C・クラークの『楽園の泉』(1987年)に知られる「軌道エレベーター」も登場しているが,単なる「資源」としてではなく,それなりのSF的ガジェットとしての凝った使い方をしてほしいものである.
 さて,『逆襲のシャア』に至るまでの『ガンダム』シリーズの登場人物たちの視座全般にいえることでもあるが,特に政治的には最も狡猾に振る舞った(その点では一種のトリックスターともいえる)シャアの視座が,最終的にはスペースノイドvs.地球住民というきわめて大局的な理想論へと回収されていったのに対し,『ガンダムOO』の登場人物たちにおいてはそのような視座の存在自体がいまだ明示されていない.『ガンダム』シリーズの重要なモチーフであった「ニュータイプ」がそこに絡む気配も無さそうである.ソレスタルビーイングの視座がどこにあるのか,それこそがストーリーの進展を握る最大の鍵であり,このカードを開いて見せるときに物語はクライマックスに到達するのであろう(この点,『沈黙の艦隊』と同じ構造である).
 人間的な苦悩を垣間見せることなく淡々と任務を遂行していくガンダムマイスターたちの姿は,石ノ森章太郎『サイボーグ009』において主人公たちが平和のために戦いながら常に自らが「兵器」であることに苦悩しているのとはまったく対照的である.士郎正宗『アップルシード』のデュナンでさえ,逡巡を見せるのだが(第2巻).その意味では,ソレスタルビーイングの視座は,あたかも人類を統べる「神の視座」であるかのようであり,その点で,4機のガンダムというのが新約聖書「ヨハネの黙示録」の四騎士を連想させるのも面白い.ちなみにこの四騎士は地上の人間を殺すためにやって来るのである.
『沈黙の艦隊』は日本の総選挙を経てやがて国連へと舞台を移し,ついには自らの「消滅的発展」によって幕を下ろすわけで,『沈黙の艦隊』が最終的には原子力潜水艦による核抑止力という軍事力によってではなく,むしろ,それを契機として沸き起こった人々の言論の力に基づいた議会制民主主義・世界政府・核廃絶という政治的ステップによる人類平和の実現という夢を描こうとしたことは,この作品が人間の集団的英知に希望をもって描かれたことを示している(作中での最後の世論調査の結果の描写がそのことを象徴している).
一方,この『ガンダムOO』の世界ではどうやら国連は全く機能していないか消滅しているようであり,軍事力による戦争の根絶というテーマが,ガンダムという圧倒的な軍事力による破壊と殺戮(なるべく死者を出さないように一応配慮しているようだが)の果てにどのように達成されるのか,一向に道筋は示されない.まさか現実世界の某超大国のように,「世界の警察」として「承認」されようと思っているわけでもあるまいし.あるいは特定の国家に属さない「政治的中立」というそれ自体きわめて政治的な立ち位置を無条件に前提した軍事力の行使を是として捉えているのであればこの作品はきわめて無邪気であると言わざるを得ない(『沈黙の艦隊』で海江田が唱えた「政軍分離」は,それが政治的にいびつで矛盾した形(原潜=国家)でしか実現できないという点で悲観的かつ現実的なのである.そもそも『沈黙の艦隊』における戦闘行為は,「原潜独立国家」の成立を阻む米国との戦闘(一度旧ソ連の原潜とも戦うが)に終始しており,「武力介入」による戦闘行為は結局一度も行なわれていないのである).
 さて,どのように「おとしまえ」をつけるのか,シャアではないが「見せてもらおうか」というところである.

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