『NANA』のナラトロジー
ナ行の音が連続して,なんとなく読みにくいタイトルになってしまった(笑).
ここ数年来継続して読んでいるマンガのひとつに『NANA』(矢沢あい著,集英社,1999年〜)がある.昨年,宮崎あおい・中島美嘉主演で映画化され,今春からアニメ化もされた.
この作品を読みながら僕が興味深く観察してきたのは,作品中での「語り」の様態である.マンガに限らず,伝説・神話や昔話・説話から小説・映画にいたる,「物語」というものは,何者かによって語られる,という形式で成り立っている.「誰が語ってるって? そんなん作者に決まってんじゃん」となどというかもしれないが,そんなに事は単純ではない.確かに作者自身が語り手になる場合,ってのもあるのだが,それは作者自身が登場人物の一人として作中に登場している場合であり,その場合にしても作品を作っている作者そのものと,登場人物としての作者は区別されている場合がほとんどである.たいていの場合,作者が,作中の特定の登場人物の視点を借りて,その人物による「語り」というレトリックによって「物語」を語らせている(もちろん特定の登場人物による「語り」を用いない,いわば「神」のような視点で語られる物語も多く存在する).それが「物語」の基本的な構造である.ちなみにその「語り」の中で最も中心的に扱われる(ジェラール・ジュネットの用語では「焦点化」されている)登場人物のことを我々は「主人公」と呼ぶ.
こうした「語り」の構造やレトリックに着目して物語を学問的に分析する手法を「ナラトロジー」という.ナラトロジーは,おおまかに,「語り」の様態の分析(語りのレトリック論)と,登場人物や出来事など物語を構成する要素の構造の分析(物語構造論)の二つに大別されるが,まずは「語り」の様態という観点からマンガ『NANA』を分析してみよう.
さて,『NANA』の語りの構造は基本的にはハチ(便宜上「ナナ」と「ハチ」という形で二人のNANAを区別する)が,とある時間的位置から過去の出来事について回想し,そして「その時点ではそこにいない」ナナに語りかけるという形で成立している.
ここで「物語っている」ハチのいる時間的位置を「語り手の現在」としておこう.これは物語の語り手にとっての現在,という意味である.『NANA』は,「語り手の現在」における主人公ハチの視点から,過去の出来事を物語るという形式で成立しており,これはマンガ版/アニメ版/映画版に共通した構造となっている.一般的に物語は,この「物語られた話」によって構成されているわけだが,この「物語られた話」における時間,物語の中の時間を「物語内の現在」としておこう.興味深いのは,アニメ版と映画版で「語り手の現在」における語り手の声(要するに主人公ハチによるナレーション)のトーンが異なっており,映画版ではかなり落ち着いた,しかしどこか悲しげな雰囲気を醸し出しているのに対し,アニメ版では能天気なハチそのままになっている,原作のマンガ版では,もちろんマンガである以上声色をうかがうことは出来ないが,読み進むに従って,この二人のNANAの物語が「語り手の現在」の時点において悲劇的結末を迎えていることが暗示されてくる.その点では映画版の「語り」は原作に忠実だといえるが,アニメ版は原作を読み進めて来た者にとってはかなり違和感がある.アニメ版の今後の展開が興味深い.
物語の構造的側面の分析からもこの「語り」の分析が裏付けられる.
第11巻の終わりでは,ハチ・ナナ二人が共に暮らしていた707号室にもう一度皆が花火大会を見るという名目で集まることになり,皆でハチを待つという情況になっているが(ここで「語り手」がハチではなく一時的にナナになるのも興味深い),翻って,第12巻では,物語内の時制が過去から一気に語り手の現在に近接する物語内の時間に移行し,しかもナナを皆で(ただし暗黙に)待つという情況に逆転している.見事である.ここで,語りの現在においてナナが行方不明となっていることがハチの語りの内容によって示される.
そして,第15巻ではカレンダーが出てくることで,このカレンダーによって物語内の時制が2001年11月であることが判明するが,一方,第12巻において登場するハチの子どもの年齢が,小学校就学前でだいたい5,6歳くらい.したがって,先の「語り手の現在」が我々読者が『NANA』を読んでいるまさにこの今にほぼ一致していることが分かる.『NANA』はこの「語り手の現在」に「物語内の現在」が追いつき,一致するところでおそらく完結する.また,これはナラトロジーではなく,記号学的分析の領域になるが,第15巻の終わりで「語り手の現在」において登場するタクミは,それまでの長髪を切った姿で登場する.これは彼が(トラネスが)音楽活動を行なっていない,ということを暗示しており,ここからも物語の終局の内容が徐々にほのめかされてきている.
以上,『NANA』についてナラトロジーの観点から分析を進めて来たが,この作品が単に時流に乗って流行したマンガというだけではなく,「物語」としての力を充分に持つ作品,これから何度も何度も繰り返し読み返すに足る「物語」であることを確証出来たと思う.これからの物語の終局へ向けての展開がまことに楽しみである.今後も分析を続けたい.
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