新聞は説教オヤジ

 この春から新社会人,という学生諸姉を毎年社会に送り出す仕事をしているわけだが,新社会人の皆さんは新聞を読んでいるだろうか.まあ読んでないだろうなあ,と思う.あるいは,就職活動をしている時はそれなりに目を通してみたり,それでもって,いわゆる「一流企業」,東証一部上場企業なんかを目指している人なんかだと,日本経済新聞なんかを駅の売店やらコンビニやらで買ってむりやり読んでみたりしちゃってるのかな,そして内定取ったらすっぱり読むのをやめたり,って感じなのだろうか.
 TVのニュース番組をきっちり観ている,という学生もそれほど多くは無いような気がする.以前講義で「同じ日に2つの異なるTV局の報道番組で放送された同一のニュースの報道の仕方について」の感想を書いてもらうレポート課題を出したことがあるが,多くの学生の最初の感想が「こんなに真剣に報道番組を観たのは生まれてはじめて」「久しぶりに報道番組を観た」というところから始まっていて少しショックを受けた記憶がある.
 じゃあそんな学生たちがどうやって社会の情報を入手しているのかと訊ねてみたところ,どうもニュースはネットのものをパソコンやケータイから,という方が多かったと記憶している.まあそれはそれで良いのだが,新聞には新聞なりの良さがある.
 それは,新聞がとてつもなく「押し付けがましい」メディアだということである.
 新聞はさまざまなジャンルの情報を紙の束にまとめて印刷したメディアであり,基本的にページ毎にジャンル分けがなされている.基本的に新聞は読み手の関心のある箇所だけを読むというスタイルで読まれているものだと思う(三面記事にスポーツと芸能を加えて,そういう読み方の一般的な関心により特化した新聞がタブロイド紙,いわゆるスポーツ新聞であろう).逆に,隅から隅まで一言一句逃さずに新聞を読む,というような読み方をしている人はそうそういるものではないだろう.
 そういう意味ではネットのニュースと同様,読み手は情報の取捨選択を行なっている.しかしだ,ここはひとつすべてのページをとにかく一通りめくってみる,という読み方をお勧めしたい.
 新聞の特長はジャンル分けされた記事を平面的に併置することにある.文化面,政治面,経済面,国際面,地方面,etc. そうやって紙面に併置された大小の見出しの字面を眺めてみているだけで,日本社会や地方,あるいは世界で現在どのようなことが話題になっているのかが大なり小なり感覚できるはずである.そして,自分の今までの興味・関心・理解の守備範囲になかったことでも,気になったところ・大事そうなところを読んでみれば,それなりに得るモノがあるはずである.中にはくどくど説教をするような記事や,自己満足のような読者投稿,なんだかよくわからないエラい人同士の対談・論争などもあるだろう.でもその相対的な重要性は分かるはずである.なぜなら大事な記事(=新聞社が重要だと思った記事)は紙面のかなりの面積を費やして配置されるからである.
 新聞は「これは大事なニュースなんだ!」と字のサイズと字面と見出し,そして記事の配置や面積,写真などで読み手に主張してくる点で,とにかく「押し付けがましい」メディアなのである.そして,その内容も何がしかの主張の押しつけであることが往々にしてあるから始末が悪い.だが,逆にネットのニュースではなかなかそうはいかない.ネットのニュースには基本的に見出し群とひとつの記事しか見えない.取捨選択の幅が狭く,かつ記事相互の相対的な重さの違いが見えてこないのである.また,TVの報道番組の場合は,基本的にはニュースの放送の順序によって比重が分かるようになっている.しかし,特集系の番組でもない限り,時間の都合でどんなに重要なニュースでも別のニュースにあっという間に取って代わられてしまう.
 そういう点では,新聞は説教オヤジに似ている.自分にはあんまり関心のないことなのに,「オレの話を聞け!」「これは大事だ!」と説教をしてくるやっかいな代物である.聞きたくない類いの話なら聞く必要は無いかもしれない.しかし,きちんと向き合ってみると,案外後で役に立つようなこと,納得できることを言っていたり,あるいはその主張の主旨には全く賛同できなくても,ある問題に対して自分が何か考えるための契機を与えてくれる結果につながったりすることがあるものである.
 新社会人となった皆さん,あるいは就職活動を契機に新聞を読み始めた学生の皆さん,とにかく紙面を一通りめくってみてはいかがだろうか.それなりの規模の会社なら新聞はとっているから休み時間にでも読めるだろうし(さらっと全部のページの見出しを眺めるだけなら5分くらいでも充分),また学生なら図書館で読めますし.

 まあ,こんな文章を書いている僕こそがもはや単なる1人の説教オヤジなのだろうが(笑).
 ちなみに以前とある大学で助手をしていた頃の僕の昼休みの日課は,図書館に数日遅れでやってくるフランスの新聞・Le Monde紙を読むことだった.フランス人のオヤジの説教が聞きたかったわけである.

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ホリエモンという呼称

 ヒトの呼称というものはつくづく面白い.「ライブドアの堀江社長」が,やがて「ホリエモン」としてお茶の間にまで広く認知されたのもつかの間,今では「堀江貴文容疑者」となってしまった.「容疑者」とつけるだけで天地がひっくり返るようなヒトの価値の転換がなされてしまったことが分かるわけだが,断じて「ホリエモン容疑者」とはならない.「容疑者」という呼称の前には本名しかこないのである.
「オウム真理教教祖・麻原彰晃こと松本智津夫容疑者」という長ったらしいのも最近はあまり聞かなくなった.これは単に「容疑者」という呼称の特性に次第に従っていった結果ではなく,むしろ彼を「麻原彰晃」と呼ぶことが,一連のオウム事件被害者や脱会信者に与える心理的影響を鑑みてのことだと思われる.
 ヒトをどう呼ぶか,それも固有名とは別の部分でどう呼ぶかということには,そのヒトに対する意味付与が反映される.特に一般大衆にも広く知られているようないわゆる有名人においては,その意味付与には何らかの社会的・政治的な「意図」が反映される.

 そもそも,名づけ,というのはヒトの記号的操作の中でももっとも原初的な部類に属するものであり,そのメカニズムに関する考察としては言うまでもなく言語学,とりわけメタファーやメトニミーといった比喩表現における認知構造からのアプローチが数多く見られる.とりわけ,いわゆるアダ名やニックネームの類いはメタファーやメトニミーの宝庫である.
 例えば高校バスケットボールを描いたマンガ『SLAM DUNK』(井上雄彦著,集英社,1990-96年)を見てみよう.その登場人物,赤木剛憲のニックネーム「ゴリ」は(失礼ながら)赤木とゴリラとの類似関係に基づく直喩,木暮公延の「メガネ君」は木暮がメガネをかけていることに由来するメトニミー(「メガネ」という部分をもって彼を代表させている),三井寿の友人たちが彼を応援する時のキャッチフレーズ「炎の男」は,三井の執念深さに基づくメタファー(彼の執念深さを「炎」にたとえている)の典型例である.ちなみに,流川楓は主人公・桜木花道によって「キツネ」呼ばわりされてはいるが(これは直喩(釣り目)とメタファー(ずる賢い)の両方か),基本的には「流川」と呼び捨てであり,ここに彼との或る種の距離感,ニックネームで呼び合うようなタイプの関係性を彼がチームメイトと築いていないことが表現されているのも面白い.

 さて,本題に戻って「ホリエモン」である.ネットで調べたことなのであまり真偽は定かではないのだが,もともと学生時代の堀江氏のニックネームだったものが,後に彼が競走馬の馬主になりその馬の名前を公募した際に馬の名前として付けられ,それがやがて彼がマスコミ上で取り上げられてくるうちに,再び彼自身のニックネームとして使われるようになったという経緯のようである.
 したがって彼がそう呼ばれるようになった発端そのものはよく分からないのだが,我々がそのニックネームの中に無意識的に見ていたであろうものはある程度類推できる.すなわち藤子不二雄の「ドラえもん」である.
 マスコミが彼の呼称として「ホリエモン」というニックネームを好んで用いていたことは,単なるIT実業家としてではない,「アイデアマン」「仕掛人」としての彼の姿の中に,あたかも「ドラえもん」のような夢とユーモアを仮託していたことのひとつの表れといえる.むろん音声的な類似の方が先にあったのであろうことは言うまでもないが,その後景に付置されていた「ドラえもん」が彼の(今となっては)外形的なイメージ形成に一役買っていた(というか,使われてしまった)ことも否めない.実像はともあれ「ホリエモン」というニックネームが,閉塞感に被われていたここ数年の日本社会において,あたかもこれからの楽観的な先行きを示すかのように響き,そして,そのように響くことを目してさえ用いられていたことは想像に難くない.そうした彼のイメージをいわゆる「構造改革」のシンボルとして政治的に利用しようとした者もいたわけだが,このことは今日の政治がこうしたメタフォリックなイメージで動いてしまっていることの悲しい証でもある.

 今,我々は,こうしたイメージが,文字通り「虚像」に過ぎなかったことを見てしまった.今,マスコミが「堀江貴文容疑者」という呼称を連呼する事態のうちに我々が感じ取っているある種の「そらぞらしさ」は,「ホリエモン」というニックネームに付与されていた意味の虚しさと,彼がマスコミによってそういうニックネームを付与され,もてはやされ,そして捨てられたという事実に対する虚しさに起因する.
「ホリエモン」はおそらくもう帰って来ないだろうが,マスコミによる社会的・政治的な意味付与の恐ろしさを我々にまざまざと示したという点で,「堀江貴文」という名ではなく,「ホリエモン」という呼称の皮肉な響きをこそ我々はしっかり記憶に刻むべきであろう.


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